2010年 06月 07日
川崎いまむかし―歩いて学ぶ地域の歴史 講座風景 |
まち歩きワークショップ
川崎いまむかし―歩いて学ぶ地域の歴史
第2回4月21日(水)
「工都かわさき発祥の地を探る」
講師:地域史研究家 長島 保
工都のはじまりは【幸区】です。
今日のコースは次の通りです。
川崎駅前(西口)→かわさきテクノピア第2街区【明治製菓跡地】→かわさきテクノピア第1街区【明冶精糖跡地(横浜精糖)=工都川崎発祥地】→旧大師堀跡→多摩川沿岸【赤レンガ護岸(明冶精糖テレファー跡)→緊急用船着き場→スーパー堤防【陸閘跡と荷揚げ場】→さいわい緑道と河原団地【川崎川岸駅と東京製網跡地】→東芝トロッコ道跡→女体神社→大型商業施設ラゾーナ【東芝堀川工場跡】(東芝モニメント・出雲神社)】→解散
京浜工業地帯発祥の地
六郷橋を挟んだ多摩川下流右岸の地は、京浜工業地帯発祥地です。多摩川の水運と地価の安価
に引かれて、近代工場が次々に進出してきた。トップを切って進出したのが横浜精糖(のち明冶精糖)で、1908(明冶41)年に御幸村南河原で創業を開始した。ついで翌年、東京電気(のち東芝)が創業を始め、1909(明冶42)年に日米蓄音器(のち日本コロンビア)、1914(大正3)年、鈴木商店(のち味の素)、翌年の1915(大正4)年富士紡績がそれぞれ操業を始めた。こうして多摩川沿いには、次第に工業地帯が形成されていった。やがて、工業地帯は川崎の臨海地域へと拡大され、ここに京浜工業地帯が形成されていった。
Ⅰ川崎西口の再開発 【かわさきテクノピア第二・一】
かわさきテクノピア(第二街区)のそびえる、ソリットスクェアの全景
川崎駅周辺は、1983(昭和58)年策定の「2001かわさきプラン」に基づいて、まず東口周辺の都心地区で再開発事業が進んだ。やがてその関連で、西口周辺も再開発が進められて来た。その対象区域には、早期に立地した東芝・明冶製菓などの工業地区、南河原銀座を中心とした商業地区、さらに大宮町の集合住宅地区が含まれた。
このうち「かわさきテクノピア」地区の再開発事業が重点的に取り組まれた。
明冶製菓の跡地に総合ビル=ソリッドスクェアが建設された。高さ105m、地上24F、東館・西館からなるツインタワーです。ソリッドとはかたいとか堅固、スクェアは方形の広場です。
明冶精糖は1980(昭和55)年千葉県に移転、その跡地に1988(昭和63)年にかわさきテクノピア第一特定街区が誕生し、川崎市産業振興会館・興和川崎西口ビル・リクルート川崎テクノピアビル・川崎東芝ビル・公団堀川町ハイツなどの高層建物の林立した。一昨年、100周年を迎え、川崎市産業振興会館前に【工業都市かわさき発祥】を記念するガイドパネルが設けられた。
Ⅱ旧大師堀跡地
二ヶ領用水大師掘跡
二ヶ領用水の川崎堀は、鹿島田堰下流(幸区)で、町田堀と大師堀に分かれた。大師堀は古川、南河原をへて、川崎宿を横断し、大師河原方面へと流れてきた。
その流路跡が、河原団地から、かわさきテクノピア街区に至る府中街道沿いに確認することができる。
陸橋を渡り多摩川沿岸に出る。
Ⅲ多摩川沿岸(親水広場)
(1)赤レンガ岸壁
JR六郷鉄橋上流の右岸堤防沿いは細長い親水広場に整備されている。
堤防岸壁には赤レンガが敷きつめられているが、この辺り一帯は旧明治製糖の荷揚げ施設があった所だ。
テレファーと呼ばれる鉄骨構造の施設でレールに吊るされたゴンドラがモッコを下ろして、艀から原料粗糖を積み込んで工場内に運搬していた。粗糖は台湾やジャワから横浜へ運搬されたもの。明治製糖工場移転に伴い、1979(昭和54)年ごろに取り外された。赤レンガを注意してみると、新しいレンガ張りの間に、かっての古いレンガ張りの壁が黒ずんで残っているのが分かる。
(2)緊急用船着き場
広場の一画には、新しい船着き場が築造されている。
災害時に陸の交通が麻痺した時、救援物資や復旧用資材を水上から輸送するための緊急用船着き場として、国交省が整備した。対岸の大田区多摩川に、もう一箇ある。
当初、水上バス就航の計画もあったが、立ち消えになった。いまの所は、夏休みの間だけ、ここから船の科学館行きの水上バスが就航する。
Ⅳスーパー堤防と陸閘
正式には高規格堤防といい。大都市河川で進めている堅固な堤防で、堤防幅を堤防高さの30倍にした、高規格堤防です。従来の堤防内側の市街地に盛土を行い、盛土後は市街地の再整備を行う方式で、買収立ち退きは行わない。
この辺りから下流にかけて、各工場の荷揚げ場(船着き場)が並び、クレーン施設を備えたものもあった。工場敷地からトロッコ軌道が敷設されていた。その為堤防の一部が断ち切られて陸閘が設けられた。その遺構が最近まで残っていた。
旧東京製綱陸閘や幸町第一陸閘だ。工都発祥を語る貴重な産業遺産だった。この辺りのスーパ堤防の工事進捗で姿を消した。
Ⅴ河原団地とさいわい緑道【川崎河岸駅と東京製網跡地】
河原団地の南緑に、さいわい緑道が続いている。この緑道を上っていくと南武線の矢向駅方面へ出る。反対の出口は多摩川にぶつかる。
これは、貨物の引き込み線の跡地で、川岸には川崎河岸駅があった。旧東京製網の敷地を賃借して敷設された。貨車で運ばれてきた上流の多摩川砂利が、ここで船に積み換えられて東京や横浜に運ばれた。
河原団地=1920(大正9)年、この地に日東製網(ブリキ製造)川崎工場が操業を始めた。しかし同年12月に東京製網(ロープ製造)が買収した。戦後、1969(昭和44)年茨城県土浦に移転した。その跡地に建設されたマンモス団地が河原町団地である。
当時3,600戸、住居可能人口12,000人。14階建の高層建物群が林立する、最上階からの、蛇行する多摩川のながれが展望できるとのこと。
この道は、何れも貨物の引っ込み線跡地。
東芝トロッコ道跡
Ⅵ女体神社
古くから南河原の「大女神」(おおめさま)として親しまれ、多摩川鎮めの神として崇敬されてきた。社伝によれば、多摩川の水害に苦しんだ沿岸住民を救うため、我が身を投じて水神の怒りを鎮める大女様を祀ったのが、神社のはじまりという。
女性の悩みを解決し、願いを叶え、安産をもたらす神として信仰を集めてきた。樹齢200年と言われ銀杏の巨木がある。
Ⅶ大型商店施設 ラゾーナ
ラゾーナは旧東芝川崎事業所の跡地に開発された。
東京芝浦電気(株)の経歴を刻んだ円径の石碑。
ラゾーナの西方(多摩川側)
以前は東芝堀川町工場だった。前進は東京電気。1890(明冶23)年発足の合資白熱舎が母体だった。
国産白熱電球の量産化をめざして明治38年にアメリカGE社と技術・資本提携し、一大電気機械器具製造企業へと発展していった。
アメリカ・ウオシントン社製の消化ポンプ
工場閉鎖(1999年)まで現役だったという。
ラゾーナ出雲神社
工場の安全と繁栄を祈願して出雲大社からの分祀。
本日はここで終了。熱弁の長島先生へ拍手で御礼を申し上げ解散。
ラゾーナの中央広場全景
ラゾーナの内部、三階からの眺め
水辺(多摩川)から始まった工都かわさき=京浜工業地帯の発祥を知った一日でした。講師の長島先生に感謝!
川崎いまむかし―歩いて学ぶ地域の歴史
第2回4月21日(水)
「工都かわさき発祥の地を探る」
講師:地域史研究家 長島 保
工都のはじまりは【幸区】です。
今日のコースは次の通りです。
川崎駅前(西口)→かわさきテクノピア第2街区【明治製菓跡地】→かわさきテクノピア第1街区【明冶精糖跡地(横浜精糖)=工都川崎発祥地】→旧大師堀跡→多摩川沿岸【赤レンガ護岸(明冶精糖テレファー跡)→緊急用船着き場→スーパー堤防【陸閘跡と荷揚げ場】→さいわい緑道と河原団地【川崎川岸駅と東京製網跡地】→東芝トロッコ道跡→女体神社→大型商業施設ラゾーナ【東芝堀川工場跡】(東芝モニメント・出雲神社)】→解散
京浜工業地帯発祥の地
六郷橋を挟んだ多摩川下流右岸の地は、京浜工業地帯発祥地です。多摩川の水運と地価の安価
に引かれて、近代工場が次々に進出してきた。トップを切って進出したのが横浜精糖(のち明冶精糖)で、1908(明冶41)年に御幸村南河原で創業を開始した。ついで翌年、東京電気(のち東芝)が創業を始め、1909(明冶42)年に日米蓄音器(のち日本コロンビア)、1914(大正3)年、鈴木商店(のち味の素)、翌年の1915(大正4)年富士紡績がそれぞれ操業を始めた。こうして多摩川沿いには、次第に工業地帯が形成されていった。やがて、工業地帯は川崎の臨海地域へと拡大され、ここに京浜工業地帯が形成されていった。
Ⅰ川崎西口の再開発 【かわさきテクノピア第二・一】
かわさきテクノピア(第二街区)のそびえる、ソリットスクェアの全景
川崎駅周辺は、1983(昭和58)年策定の「2001かわさきプラン」に基づいて、まず東口周辺の都心地区で再開発事業が進んだ。やがてその関連で、西口周辺も再開発が進められて来た。その対象区域には、早期に立地した東芝・明冶製菓などの工業地区、南河原銀座を中心とした商業地区、さらに大宮町の集合住宅地区が含まれた。
このうち「かわさきテクノピア」地区の再開発事業が重点的に取り組まれた。
明冶製菓の跡地に総合ビル=ソリッドスクェアが建設された。高さ105m、地上24F、東館・西館からなるツインタワーです。ソリッドとはかたいとか堅固、スクェアは方形の広場です。
明冶精糖は1980(昭和55)年千葉県に移転、その跡地に1988(昭和63)年にかわさきテクノピア第一特定街区が誕生し、川崎市産業振興会館・興和川崎西口ビル・リクルート川崎テクノピアビル・川崎東芝ビル・公団堀川町ハイツなどの高層建物の林立した。一昨年、100周年を迎え、川崎市産業振興会館前に【工業都市かわさき発祥】を記念するガイドパネルが設けられた。
Ⅱ旧大師堀跡地
二ヶ領用水大師掘跡
二ヶ領用水の川崎堀は、鹿島田堰下流(幸区)で、町田堀と大師堀に分かれた。大師堀は古川、南河原をへて、川崎宿を横断し、大師河原方面へと流れてきた。
その流路跡が、河原団地から、かわさきテクノピア街区に至る府中街道沿いに確認することができる。
陸橋を渡り多摩川沿岸に出る。
Ⅲ多摩川沿岸(親水広場)
(1)赤レンガ岸壁
JR六郷鉄橋上流の右岸堤防沿いは細長い親水広場に整備されている。
堤防岸壁には赤レンガが敷きつめられているが、この辺り一帯は旧明治製糖の荷揚げ施設があった所だ。
テレファーと呼ばれる鉄骨構造の施設でレールに吊るされたゴンドラがモッコを下ろして、艀から原料粗糖を積み込んで工場内に運搬していた。粗糖は台湾やジャワから横浜へ運搬されたもの。明治製糖工場移転に伴い、1979(昭和54)年ごろに取り外された。赤レンガを注意してみると、新しいレンガ張りの間に、かっての古いレンガ張りの壁が黒ずんで残っているのが分かる。
(2)緊急用船着き場
広場の一画には、新しい船着き場が築造されている。
災害時に陸の交通が麻痺した時、救援物資や復旧用資材を水上から輸送するための緊急用船着き場として、国交省が整備した。対岸の大田区多摩川に、もう一箇ある。
当初、水上バス就航の計画もあったが、立ち消えになった。いまの所は、夏休みの間だけ、ここから船の科学館行きの水上バスが就航する。
Ⅳスーパー堤防と陸閘
正式には高規格堤防といい。大都市河川で進めている堅固な堤防で、堤防幅を堤防高さの30倍にした、高規格堤防です。従来の堤防内側の市街地に盛土を行い、盛土後は市街地の再整備を行う方式で、買収立ち退きは行わない。
この辺りから下流にかけて、各工場の荷揚げ場(船着き場)が並び、クレーン施設を備えたものもあった。工場敷地からトロッコ軌道が敷設されていた。その為堤防の一部が断ち切られて陸閘が設けられた。その遺構が最近まで残っていた。
旧東京製綱陸閘や幸町第一陸閘だ。工都発祥を語る貴重な産業遺産だった。この辺りのスーパ堤防の工事進捗で姿を消した。
Ⅴ河原団地とさいわい緑道【川崎河岸駅と東京製網跡地】
河原団地の南緑に、さいわい緑道が続いている。この緑道を上っていくと南武線の矢向駅方面へ出る。反対の出口は多摩川にぶつかる。
これは、貨物の引き込み線の跡地で、川岸には川崎河岸駅があった。旧東京製網の敷地を賃借して敷設された。貨車で運ばれてきた上流の多摩川砂利が、ここで船に積み換えられて東京や横浜に運ばれた。
河原団地=1920(大正9)年、この地に日東製網(ブリキ製造)川崎工場が操業を始めた。しかし同年12月に東京製網(ロープ製造)が買収した。戦後、1969(昭和44)年茨城県土浦に移転した。その跡地に建設されたマンモス団地が河原町団地である。
当時3,600戸、住居可能人口12,000人。14階建の高層建物群が林立する、最上階からの、蛇行する多摩川のながれが展望できるとのこと。
この道は、何れも貨物の引っ込み線跡地。
東芝トロッコ道跡
Ⅵ女体神社
古くから南河原の「大女神」(おおめさま)として親しまれ、多摩川鎮めの神として崇敬されてきた。社伝によれば、多摩川の水害に苦しんだ沿岸住民を救うため、我が身を投じて水神の怒りを鎮める大女様を祀ったのが、神社のはじまりという。
女性の悩みを解決し、願いを叶え、安産をもたらす神として信仰を集めてきた。樹齢200年と言われ銀杏の巨木がある。
Ⅶ大型商店施設 ラゾーナ
ラゾーナは旧東芝川崎事業所の跡地に開発された。
東京芝浦電気(株)の経歴を刻んだ円径の石碑。
ラゾーナの西方(多摩川側)
以前は東芝堀川町工場だった。前進は東京電気。1890(明冶23)年発足の合資白熱舎が母体だった。
国産白熱電球の量産化をめざして明治38年にアメリカGE社と技術・資本提携し、一大電気機械器具製造企業へと発展していった。
アメリカ・ウオシントン社製の消化ポンプ
工場閉鎖(1999年)まで現役だったという。
ラゾーナ出雲神社
工場の安全と繁栄を祈願して出雲大社からの分祀。
本日はここで終了。熱弁の長島先生へ拍手で御礼を申し上げ解散。
ラゾーナの中央広場全景
ラゾーナの内部、三階からの眺め
水辺(多摩川)から始まった工都かわさき=京浜工業地帯の発祥を知った一日でした。講師の長島先生に感謝!
by kawasaki-ac
| 2010-06-07 00:00
| 講座風景 まち歩き